まず最初は「出会い」から始まるのが物語りのお約束なのだが、当時はゲームセンターの店員をしていたから。と簡単に説明し終わってしまう。前文に「人生に影響を与える」の文章を入れた以上はそれで終わる訳には行かない。
実際に自分の人生に影響を与えた出来事は「血まみれのブッチャーを見た時」「ジャンボ鶴田の強さに憧れた時」「藤原のプロレスを見た時」「タイガーマスクの華麗な強さに触れたとき」そして「スタンハンセンにブルロープでしばかれた時」と基本的にプロレス関係が多い。ゲームに関しては「ヴァーチャファイターとの出会い」と「ファイナルハロンのイベントに関わる」しかない。ここだけ見るとまるで自分が「愚かな」人間に見えてくるのだが、実際にそうなので開き直っていきたい。
大阪は梅田で当時ファイナルハロンは人気ゲームとして存在していたが、当時は「そのうち廃れるものの一つだろうな」と思っていた。当時からゲーム業界は非常に流行り廃りが早いので、そう思うのも仕方のないものだ。だが面白い事に誰よりも関わりが切れなくなってきたのは"Leading Jocky
Series"なる大会が行われる事となり実況を任されるようになったからだ。当時の自分は数少ない「ファイナルラップ実況」の生き残りだったので当然の任命だった。そうなると生来の「盛り上げたい」根性が出てくるまでに時間はかからなかった。
もう過去の話になるが「ゲームセンターの実況by
Alexander服部」をここで説明しておきたい。最初はF1のゲームファイナルラップで8台のレースを毎日4〜5時間実況していたが、その頃は流行の「レーシング」ものだったのでお客さんのつきは、良かった。基本的に「自分が楽しいから」実況をしていたが常連と呼ばれる人々が集まると「服部さんマイク!」と言われたのがきっかけで「喜び」に目覚めてしまったのは間違いない。当時のフェラーリ大好きの松田君や標木さんらのおかげで「お客さんとのコミュニケーション」についての思いは固まっていたと思う。あと無茶だったとは思うが「UFO
キャッチャー」すらMCしたことがある。今のナムコの人間でここまで徹底的にMCをしていた人間を、僕は知らない。
自分が一番上手い、とは思わないものの情熱だけは負けていなかったはずだ。あとイベントでメダルコーナー2時間とパズルゲームのMCはつらかった。もうやりたくない。
ファイナルハロンの初期では難易度がクローズアップされていたように思う。実際に「今まで無かった」タイプのゲームだったので操作に慣れにくいのも理由の一つだろうが、最大の問題点は「体力的に女性には無理」とういう部分だった。今生き残っているFF2は比較的に最高速が出やすく、且つ持続も難しくは無い。だが元祖FFでは「大の大人」が必死になって始めて最高速に至るのだ。個人的にはそれが良かった。バカなプロレスファンの考え方なのでほとんどの一般人には受け入れられるものではないと思っていたのだが、大阪には愛すべき「バカ」達がたくさんいた。難しいと必死になる人間もいれば、ストイックな部分が気に入った人間もいる。そこでイベントが始まり一つのコミュニティプレイスが自然発生した。
最初はあくまでも「主催者側」の立場から見ていたのだが「あの頃のF1軍団」を思い出していた自分としては「盛り上げねば」の意を大きくしていた。実際に体力勝負を持ち込み「勘弁してくれ」と笑いながら言われたり「あのアピールどうでした?」などの会話を交わすようになっていた。
ファイナルハロンも2が登場ししばらくたった頃にナムコを離れていたので、FFの状況のほうはわからなかった。分かっていたのは2年近く離れていた事実だけだった。2000年の夏が終わる頃東京の会社に勤めていて、友人もいない状態だったので「醍醐港の岸辺」をふと覗いてみた。世代は変化しているものの、まだ「あの頃」は存在していた。TAKUYAさんからのメール等での連絡に答える形で初めて新宿に行った時には少し泣きそうになった。そこには一文の得にもならないのに汗をかき、情熱を傾ける愛すべき「お馬鹿さんたち」が絶滅せずに存在していたのだ。これを見せられたら長い間マイクを持っていなくても、「お願いしますね」の一言を断れるはずもなく了承した。
終わってから「自分の中ではまだまだです」と言ったが、その理由はもうわかっていただけたと思う。情熱を一瞬で取り戻した訳ではないし、体調も一瞬で整えた訳ではない。ただ言い忘れていたので付け加えておくと「MCには満足していないが、心地よい場所にいれた事は非常に満足している。」
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